数年前のコロナ禍、昨年の能登半島地震の発生、異常気象など近年私達は、自然から様々な影響を受けています。その中で生きている私たちの生活も大きな影響を受け、生活スタイルや考え方も一変したのを覚えていると思います。また今後発生すると言われる南海トラフ巨大地震に備える必要性など私達にはもう一度「当たり前」って何?と考える必要があるのではないかと思っています。
私たち一人ひとりは、幸せになりたいと願っています。幸せの条件には、いろいろあって、人それぞれ違うかも知れません。共通して言えることは、自分が愛するもの、価値あるものに取り囲まれて、心が満たされている状態といっていいでしょう。幸せを願う人たちは、愛する人を探し、やりがいのある仕事を求め、そして、すてきなもの、すばらしいもので、自分のまわりを囲みたいと願っています。
今の私達の周りは、それを満たすに十分な物質的な豊かさと、過激といっていいほどの刺激と情報に溢れています。お金さえ出せば、ほしいものがほとんどすべて手に入る世の中です。でもそれらを手に入れた人たちがみんな幸せなのかというと、必ずしもそうとは限らないのではないでしょうか?それはなぜでしょう?
日本の一番古い歌集『万葉集』の中に、一つの歌が収められています。【信濃(しなの)なる千曲(ちくま)の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ】この歌は「たぶん、うら若い一人の乙女が、自分の愛する人、夫、恋人を送り出した後、“その人が踏んだ石だと思えば、私には玉と思えるのです”」とうたった一首だと思います。
この歌からは「なにが、この当たり前のどこにでもある石を、輝く玉に変えたのか、」それはこの乙女の心に宿る愛する心、いとおしむ気持ちだったろうと思います。この人にとっては何カラットかするダイヤモンドでなくても、愛する人が踏みしめたその石を、玉と抱く事で幸せを感じる事ができる人なのです。ここに目の前にあるものは「肝心なことは、目に見えないんだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。」と私たちに幸せの原点というものがここにあるということを示しているように感じています。
ほんとうは、幸せという現象はなく、実際に目の前にある物やその現象を見て、幸せと思えるか、不幸せと感じるかの違いだけ。見方や考え方がその人の今後の人生の進むべき道を決めていくのではないかと思っています。「肝心な事は、目に見えない」だからこそ当たり前のことを輝かすために当たり前のことを当たり前に行うことで何かに気が付き、感謝の気持ちを持ちと誠実さをもって本質を見極めるための次の行動を判断していかなければならないと思います。本質は「目に見えない事」という事を忘れず、当たり前は当たり前ではなく一人一人が当たり前のことをいかに大切にすかどうか。その当たり前のことが今以上に輝けるよう私たちは当たり前のことをさらに徹底していく事で様々なことに気が付くことができ、視野が広がっていくことで見えてくることが重要だと思っています。先日の始業式でも生徒たちにはそのことを伝えました。当たり前のことを輝かすことができるような日常生活、学校生活を過ごしてくれれば生徒たちのこれからの人生はきっとよりより人生の道が開かれ少しでも多くの本当の幸せを感じていくことが出来ると思っています。